もう立ち直ってもいい頃なのに、現在も「ゆれ」に対する強いストレスを感じています。そこで逆転の発想に立ち。 自ら「ゆれを起すこと」が、ひょっとしたら気持ちを塗り替えられるのではないかと思い、その仕掛けとしてつくってみました。 中心素材には、「支え」と「守護」の組み合わせを意味づけ、菊作りの「支柱竹」と「熊鈴」を選びました。 竹の一部に触れ、鈴の音を「石たち」に聴かせてくださいとお願いし、少し揺らせて見てもらいました。 つながったままの竹は振動を伝え、鈴の音は響きました。この仕組みを理解した後は、人は優しくなりました。 今度は、いまわしいゆれの記憶を守護の音で和らぐように、静かに癒すための優しい波動を探し始めました。 構成美を狙ったものではありません。ビニール製の結束バンドが昆虫のように見え、逆に竹が人工的に見えてきました。
私は大学でタブローの基礎を叩き込まれました。机上の果物や風景に立ち向かうとき、モティーフの捉え方として、 最初に身につけたことは、目の前の全ての物質を透視して、自分の立つ位置と目の高さから、遙なる不可視的水平線を 見定めることでした。エスキースの段階でカンヴァスの中に必ず水平線の位置を描き入れることで絵画の中に小宇宙を 構築することであり、タブローに接するときの私の支えとなった。地震は、私の揺るぎない支えであった「立つ位置と 目の高さ」を狂わせた。その後の止まない余震の数々は、更に私のバランス感覚を狂わせようとした。 時間が経つに連れて自分中心に考えている自分に気付かされたのです。そうではない。地球は動いているのである、 ダ・ビンチもレンブラントも意識しなかっただろう。地球も絵描きも筆もカンヴァスもすべて動いているということを 何が何でもやってみたかった。
「失われた大気」というタイトルで、アトリエで製造したビニールで形づくった大気を「A子」と命名し、A子を連れて、様々な場所に行って記念写真を撮りました。 素材は、菊作りの支柱4本と立方体のビニールです。
一九七〇年五月十日、魚野川でのことを石たちは記憶しているだろうか。制作意欲を失っていた私を救ったのは、「世界の馬鹿な男たち」という深夜番組だった。 エッフェル塔からダビンチ考案の翼で飛び即死する男たちの映像である。コマの少ないフィルムだから即時に地面に叩きつけられる。儚くて胸を締め付けられた。 最新のレーシングカーにジェット用エンジンを搭載し、木っ端微塵に飛び散る男や人間ロケットなど無謀な冒険家たちの挑戦記録だった。後半はイブ・クラインを 筆頭に主にダダイズム運動の芸術家を奇異な表現者という視点で面白がった。イギリスからパリの凱旋門までチョークでラインを引く男たち、絵の具を口に含みカ ンヴァスに吹きつける抽象画家、白いカンヴァスに白い絵の具だれで描き続ける男、正装した客を招き列車と自動車の衝突ショウなどを見せていた。その中で一番 エキサイテングだったのは、ネバタ砂漠で制作するマイケル・ハイザーだった。「アース・ワーク」という表現で、大地を彫刻する作家である。一陣の突風と共に 跡形もなくなるが、尚も黙々と造り続けている姿だった。翌日、魚野川の川底から1個の石を拾い上げ、大きな石の上に置いたり、川底の濡れた石を拾い初夏の強 い日差しで乾燥した川岸の石畳の上にダラダラと濡れた石の便を垂らしながら一直線に運び出したり、石たちの乾燥した泥の表皮に濡れていた軌跡を描きました。 私の任意で最小な行為により石の記憶を変えさせたということ。川底の濡れていた石に眩しい陽光と枯渇する日々を、川岸の乾燥した石たちには一瞬の濡れと上か らの重圧を、そして、私はそれまでのアートの呪縛からの解放された日となった。私の行為は石たちの記憶と共に数枚のモノクロ写真に封じ込められている。 彼らは記憶しているだろうか。
自作を「自然に向けてお見せすること」というコンセプトで参加を募りました。「Nのための食卓展」は、秀峰守門岳に向けて作品をお見せする。 そのことをネイチャーへの捧げ物という意味で表しました。夏から雪解けの3月までの展示を行い、様々な季節の事象との響きあう関係図が見る者 を魅了しました。しかし、あくまでも作品の後ろから覗き見したことでありました。「Nのための食卓展」は、その後日本海に向けて新たなるメン バーで展開され、一作品の意味と食卓展としての全体の意味を内包しながら、コンセプトは変わらずに、人間以外に作品を見せることの意味はある 種の趣を確定したといえます。私の作品、ステンレスの円状の形は「循環」を意味し、宇宙の生命や輪廻観とつながる。空洞の円は角度を変えて風 景を覗くこと、風と光や風が通過する道であること、トンボや小鳥の止まり木となること、そんな自然環境の中で作品は無菌室の画廊空間から解放 されて呼吸すると考えました。この基本構想は、幾度か リメイクしました。素材に布などをプラスしてバージョンアップを図ったりして、陽光、 風雨、気温、土、草木などを意識して、私の作品がただそこにあるということではなく、自然との最低限のかかわりを保っかたちでお見せできるの ではないかと考えています。
自分の家までの道のりを図示すると、分かりやすいと言われたりするとそれはそれで伝達できたのだから、と思うのですが、明らかに先ほどのA氏と 今度の相手B氏では、異なっているのです。なのに、それはそれでノープログラムで伝達完了です。そこで、12人の相手を想定して「自分の家までの 道のりを図示する」という行為を間を置かずに矢継ぎ早に行ないました。図示する鉛筆の筆圧やスピード感を置き換え定着して見せるにはと考え、な まし鉄線の「結束線」と言われる鉄線を用いました。素材は直線で私の指の圧を正確に残してくれます。予想通りに、同じものは出来ませんでした。
遊ぶ場や用具が用意されていて、ルールや達成感の収め方までも最初から決められている。そこから一歩外に出ることだった。 逸脱するところから新しい何かが得られると考えていた。「亡霊が出るから撮影会をやろう」という馬鹿げた発端から、虚構の 中で遊ぶための企画が開始された。亡霊の名は「たよ」といい、16歳の女郎だったという。水無川の河原にうるう年に現れると 話は段々と膨らみ、「いかに手づくりの遊びを創りあげるか」というコンセプトで、宿を押さえ、1泊2食をこちらで用意するか らと雪女郎撮影会への勧誘を行なった。県内外から13名が集結し楽しい1夜を過ごし、翌日は「たよ供養祭」を河原で開催した。 翌年には「鄙窪」という名の減反地を借りて、6個のトーチランプを振付師より指示をいただき設定し、「夜会・夜蛾の舞」の振 付けを12名の作家の方々に依頼した野外夜間イベントで、真っ暗な闇にランプの光は煌々と揺らぎ続きました。
測定するということ。この世に生れ落ちた一個の小さな人間に何ができるだろうかということからスタートした。 視ることと見られることの相互関係に介在するのは私自身であり。他人には代わりようがないことであると考えていた。 私が視たもの、あるいはそこに存在していたということ。その証しとして、写真で記録した。守門山に向かってジャンプしてブレた山の写真で私がジャンプしたことを見せた。 橋の上から流れる刈谷田側の川面と川底を記録したり、石を空に投げたり、道路標識で山の稜線をなぞったりした。私的なことではあるが、妻をいただきに行くときのことである。 村の近くで私は車を降りて、20歩を数えては、道路の正面風景と真横の風景を写真で記録した。前と横の目標物を確認して現在位置を知るということからの測定手法である。 その記録写真を順番に並べて展示した作品は、それを見る人に追体験として私の移動した様子を伝えてはいるが、視ることと視られることの相互関係に介在しているのは私自身だけであり。 他人には代わりようがないことであり、私が見たもの、あるいはそこに存在していたということ。その証しとして、写真はその日の様子を記録している。
道を見失いかけた私に、ニルヴァーナ展「最終美術のために」という松沢宥の公募勧誘のページがキラキラとして輝いて見えた。 「これ以後、美術が亡くなるという、最終美術を提出せよ」というアジ・コピーを繰り返し読むのだがイメージは一向に浮かばな い。分からないことが逆に魅力的だった。~ 略 ~ 「ニルヴァーナ展」では、「これ以後、美術が亡くなるという、最終美術を提 出せよ」を受けて、未来を予言し存在しないものを存在しないものとして存在させるといった行為の記録を提出した。具体的には、 美術出版社に「ニルヴァーナ・最終美術のために」という書籍を注文し、弊社には該当書籍はなしという返答に、お手数をかけて申 し訳ないが再度調べていただきたいという書簡の交換記録を作品として提出したのである。 ~ 略 ~
まず、コーヒーを飲みながら、今井美術館の中庭に立っておられます観音様のお姿と慈愛溢れた微笑を喫茶コーナーの大ガラスを通して、ご自分の目でご覧下さい。 最後に、末尾の「追記 終了報告」をお読み下さい。
最初に、多くの方々からご高覧いただき、作品づくりにご協力いただき有難うございました。
展の幕を降ろしたいま、目的を達成できた充足感に浸っています。私が初めに思い描いた
「今井美術館の立地条件を考えながらの作品づくりのプラン」と事後を比較すると、格段の深化を皆様にお届けできたことに満ち足りております。
ひとえに皆様方から、足を運んでいただいた賜物であり、深謝申し上げます。
さて、美術館の庭園の観音様をみんなで「視る」ことへの呼びかけですが、庭園を一望する大ガラスに、覗き用の白い枠を設け、枠内から観音様を
視たそれぞれの焦点に思い思いのカラーシールでマーキングしていただくことでした。
私の以前の発表「2000シリーズ・ANATAMAKASE」を思い起された方は、今回も「鑑賞者参加型アート」であるという受止めが布石となり、気軽に
楽しみながらご協力いただけたことと思われ、予想通りでありました。つまり、会期の終わりには、窓ガラス上に色とりどりのシールがたくさん貼
られ、作者と入鑑者との共同制作としての水玉作品が形成されるだろうと誰もが容易に予想できたと思われます。実は、このことが第一のステップでした。
さて、ここで私は思いがけない「視る」を発見し、楽しませていただくことになりました。マーキングされる方は、この場に一時的に居る
のであり、他の人とのズレを見ることも比較・確認する機会も当然無いわけです。私は、参加していただいた方々のマーキングにほぼ立ち合わせて
いただきました。そこで十人十色の多種多様な反応をしっかりと拝見させていただきました。
私は黄色とその根拠を主張する人、全体を見渡し少ない色のシールを選ぶ謙虚な人、なかなか位置を決められず慎重な人、瞬時に遠くから一発で決
める人、観音様の何処の部分を見たら良いかと迷う人、椅子に腰掛けた位置からと自分の居場所にこだわる人、ガラスの直前で覗く人、マーキング
後に手を併せ観音様を拝む人、様々な「人間ウォッチング」を楽しませていただきました。
その姿を、大きく分別し整理してみると、概ね次のようなことでした。
・色とりどりのシールを選ぶこと。 何色で主張しよか。
・何処をみたらよいか。みんなは観音様の何処をみているのだろうか。
・立ち位置をどこにしようか。立つか座るか、何処から狙ったらいいのだろうか。
・貼る位置をどこにしょうか。全体の中での私は何処に。
・日付にするかサインにするか。他と異なる自分の証明として。
電線に羽根を休む鳥たちにテリトリーがあるように、マーキングで他人とご自分のシールが重ならないのは、人としての奥ゆかしさからではないかな
どと話していましたが、何てことはなく順番に見ているのであるから人と重なることなどないのであります。重なれば観音様の姿は見えないわけで、
シールは次の人の「死点」だったということです。
今まで多くの人が今井美術館を訪れながら、まじまじと観音様をみることはなかったのではないか。
今後は私の覗き枠が取り除かれた後、再びここを訪れたとき、多くの体験者は観音様を見るだろうと考えます。会期の途中、観音様の足元に近付いて
みると、観音様が私に微笑んだように見えました。これも「視る」ことの予想外の体験でした。
ここで、私がコーディネートした「視る」ことの主たる意味は、今井美術館に訪れる方々に、観音様を「視る」というそれぞれの単独行為をマーキングという手法を通して、枠内に水玉模様を形づくると
いう共同作業体験をしていただくこと。それ以後、個々の追体験としてこの体験から振り返っていただくことやこの美術館の成り立ちまでも関心を持っ
ていただくキッカケとしてこのことを仕組んだわけであります。
私が最後に用意しました「視る」ことのサプライズとは、「制作協力していただきま
した皆様へ」と題した礼状の末尾に記載いたしました。私たちが観音様を視ることの相互関係として、観音様が私たちを見ているという「視る」こと
の本質に気付いていただくことでした。
しかも、嬉しいことに、机上プランでは想定しえなかったことに気付かされ、思わぬ「視る」ことのサプライ
ズを獲得したのです。
庭に続く、ドアをくぐって庭へ出ると、窓ガラスに貼られたカラフルなシールは一変して、全て雪が降るかのような白いシール
となっていました。(シールの裏はみな白い)館内での様々なことは、静寂によって掻き消されて、静かな白い世界でした。観音様から「視る」と、そ
れぞれの勝手な主張はみな平等であり、その全てを受け入れたと思われる世界です。人は死んだらこのような白い灰となると感想を寄せた人もいました。
更に、「視る」ことのサプライズは続きました。窓ガラスの白い雪のようなシールを見ていると、「何と、その雪の中に観音様の姿が見えるでは
ありませんか」秋晴れの青い空をバックに、太陽の光をさんさんと浴びたまばゆく真白い観音像がガラスに映って見えたのです。
【視る]ことのコーディネーターの私を驚ろかせる【視る]ことがここにありました。
最終日には、延べ66枚のマーキングによるありがたい参加結果をいただきました。
2006/10/15